「ら抜き言葉」ってダメですか?
日本語のゆれ
ある語が変化する過程でその語形等について本来の形に対して桔抗する形が別に生じ、両者が並存する状態になったとき、これを言葉の「ゆれ」と言う。語形のゆれ(アタタカイ/アッタカイ、感ずる/感じるなど)のほかアクセントのゆれや表記のゆれもある。また、ある語に新しい意味・用法が生じ、本来のそれと並存する状態を「ゆれ」と言うことがある。 『文化庁HP』より
「ら抜き言葉」ってダメですか。
『日本人はよく「食べれる」って聞きますが、ダメなんですか』
教室で学習者から必ず質問されるものの1つですね。皆さんは、この「ら抜き言葉」どう思いますか?
私は、「ダメじゃない」派です。
「食べることができる」というとき、「食べられる」というのが正しい言い方ですが、「食べれる」が一般的に多くなっていますよね。同じもの・ことを表現する複数の言い方が一つの時代に共存している状態を「ゆれ」といいますが、「ら抜き言葉」はその象徴的なものの一つです。
かなり前から、「日本語が乱れている」「文法的に正しくない」「いや、言葉は変化するものだから」などというような議論がされています。
ただ現状から見ると、文化庁の調査でもありましたが「ら抜き言葉」をつかう人はもはや多数派です。
「ら抜き言葉」は理由がある現象
この「ら抜き言葉」、私たち日本語教師の間では「理由のある現象」です。学習者に「ら抜き言葉」で質問されたとき、私はこのように例文を挙げて説明しています。
この3文を見てください。
①ネズミがネコに食べられる。
②社長が朝食を食べられる。
③私はパクチーが食べられる。
この「~られる」という言い方は、可能表現と尊敬表現の両方で使われる少々厄介なものなのです。もちろん、助詞で用法の区別もつきますが・・・
ちなみに、①は受身、②は尊敬表現、③は可能です。
「見られる」、「食べられる」のように「ら」がある動詞では、それが可能表現か、尊敬表現かの区別がつかないので、その区別を付けるために可能のとき「ら」の脱落が起きています。
もちろん、助詞を見たり、前後の文を読んだりすれば、その表現が①②③のどれに当てはまるのかすぐわかるとは思いますが・・・
日本語を勉強する外国人にとっては「食べれる」は「ら」がないから可能表現だとなれば、単純で分かりやすいのではないでしょうか。
「そのシャツ、着れますか?」と言われたら、あー可能だなとすぐわかります。意味の曖昧さもなくなります。
世間では避けるべきだと扱われている「ら抜き言葉」ですが、形を単純にしたり、意味の曖昧さが回避できるというメリット・合理性があるので日本語を学ぶ上では便利なのです。
言葉のゆれや乱れは、ときに言語を豊かに使いやすくしていく側面もあるようです。一律に否定せずに受け入れていってもいいのではないでしょうか。
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