【接続詞】「また」と「さらに」は、どう違う?
みなさんにとって教えるのが難しいと感じる文法事項には、何がありますか。私の筆頭は、接続詞。これは、教えるのも、学ぶのも難しいと感じています。接続詞はどの言語にもあり、もちろんそれぞれに訳語を与えることはできますが、それをそのまま適用して、うまく使いこなせているという事例を、私はあまり見たことがありません。
そこで、今日はどうやったら接続詞をうまく教えられるのかについて考えたいと思っています。もちろん、1回きりで接続詞全般について、広く語るのは難しいと思いますので、細切れにですが、二つの似たような機能の接続詞を比較することで、学生に説明しやすいルール、二つの間の線引きをまずは見つけてみたいと思います。
今回とりあげる接続詞は、「さらに」と「また」です。どちらも前項・前文に情報を「付け加える」機能である、という説明はできるのですが、その二つが、いつも言い換え可能であるかといえばそうではない、この点にフォーカスして考えていきましょう。
前後の内容を観察しよう。
例文1
〇 彼はいい父親であり、またいい夫でもある。
? 彼はいい父親だ。さらにいい夫でもある。
例文2
〇 納豆はおいしく、また健康にもいい。
〇 納豆はおいしい。さらに健康にもいい。
例文1と例文2は、構造的には同じ(前後の主語が同じで、かつその主語の属性や性質について述べている)なのですが、例文2の「さらに」を使った例文「? 彼はいい父親だ。さらにいい夫でもある。」には違和感があります。これは、なぜなのでしょうか。
それは「また」が「前後の内容が、並列・同等の価値である」のに対し、「さらに」は「前述を受けて、それを発展・強化・上乗せする」ような意味合いを持つからだとはいえないでしょうか。それを証拠に、例えば「また」のほうは、前後を入れ替えても違和感がありません。
〇彼はいい夫であり、またいい父親だ。
〇納豆は健康によく、またおいしい(味もいい)。
こう考えると、「また」と「さらに」の機能は、両者とも「付加機能」と説明するのは、ちょっと乱暴だと思われます。「また」の付加情報は「文の前後が同程度のことである」という説明を付け加えたほうがよさそうです。
誤用文を分析してみよう
「また」と「さらに」は、どちらも「付加機能である」としか説明なかった場合、次のような誤用が起こりました。
彼女はピアノが得意だ。また、ヴァイオリンも演奏できる。
上記の例文の違和感はどこから生じているのでしょうか。
①主語・主題は「彼女」で同じですが、前件「ピアノが得意だ」と後件「ヴァイオリンも演奏できる」で、能力のレベル・価値の重さが “得意” と “演奏できる” で異なっていて、同列・並列という感じが弱い。
②価値観(「得意である」ことがポジティブ)という軸はありますが、「演奏できる」ことが「得意である」ことと同じ水準・方向の能力かどうかがやや曖昧。つまり、付加としての“同程度の事柄”という感じが薄い。
以上の2点が言えるかと思います。
では、次に、どうすればより自然な言い方になるのか。修正方法、言い換え案について考えてみましょう。
修正案A(能力のレベルを揃える)
「彼女はピアノが得意だ。また、ヴァイオリンも得意だ。」
→「得意だ」を使って両方の楽器で同じ能力・価値軸に揃えることで、「また」が並列・付加として自然になります。
修正案B(動作能力を揃える)
「彼女はピアノを演奏できる。また、ヴァイオリンも演奏できる。」
→「演奏できる」に統一して、能力として“実行可能である”という同種の表現に揃える。
修正案C(文脈を明示する)
「彼女は幼少期からピアノを学んできた。また、最近ヴァイオリンのレッスンも始めた。」
→「また」を使う前に文脈(幼少期からの継続、最近始めたこと)を明示することで、付加の意味がより明確になります。
学生から文作の意図を聞きながら、以上のようなポイントに注意して直すと良さそうです。
「さらに」に込められた意図
「また」については、前後の情報が、同列・同質であるべきだと述べました。それでは「さらに」はどうでしょうか。
「さらに」を使うときは、前述情報だけでも十分だが、主題の持つ属性や特質の完璧さをさらに補うものが後件に述べられるべき情報だと考えています。
例えば、
納豆はおいしい。さらに栄養価も高い。
といえば、納豆は文句のつけようがない食品だという価値があると思います。
それでは、以下はどちらが自然に感じますか。
この町は交通の便が良い。さらに、自然も多い。
この町は自然が多い。さらに、交通の便も良い。
「また」は前後入れ替えても、等価価値ゆえに、違和感がないものが多いんですが、「さらに」は入れ替えがなじまないものが多いと思います。
より自然なのは、
この町は、自然が多い。さらに(は)交通の便がいいとなれば文句のつけようがない。
だと私は感じるのですが、みなさんはいかがでしょうか。この町の完璧さを言うには「自然」という普遍的で揺るがないものが先で、それだけでもすばらしいが、「交通の便」という現代での価値付加という並びが自然に思えます。前後並び変えても違和感のない並列情報の「また」、主語の価値を確固たるものとするための追加情報の「さらに」、このあたりが二つの接続詞の違いを論じるときの肝となりそうです。







